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アニメ視聴記録

2025/6/18 水(ジークアクス第11話に対する感想)

機動戦士Gundam GQuuuuuuX

第11話。

 第11話を単体でいま評価するのは難しい。

 次の最終回で何が成し遂げられる何かがあれば、その下地として第11話も必要であったのだという価値が決まりそうだ。

 ただ現時点での印象を述べると、第11話はまったく筆者の好みではなかった。

 

 まずロボットアニメでの終盤となると熱いバトルを期待してしまう(※コードギアス1期)。

ジークアクスとジフレドにそのアクションを期待していたが、実際にはキケロガとギャンの方である程度行われた。その内容は物足りないものではあったのだが。

 ファンネルを素手で掴むのは目新しいなと思ったが、それも第一話でエグザべがやっていたな……。

 

大枠として、第11話で筆者が感じた不満点は以下の2つである。

①旧作キャラとGQキャラによる尺の奪い合い

②作品より視聴者に目線を向けた演出

 

 ①に関しては従来から広く認識されており、いわゆる「描写不足」としてたびたび言及されていたと思う。

  これは2種類のドラマを描くために、限られた尺をお互いに奪い合いになってしまったからだと考えられる。

 理想的には旧作キャラとGQキャラの人物像が同時に深まるように、会話のやり取りや交流を頻繁に行って欲しかった。しかし実際には、これまでの本編では固定されたキャラ同士だけで会話するだけで人間関係の化学反応を起こさせる機会が少なかったと思う。

 また本作は一話限りの出演をするキャラが多くいことから、後に活きることのないただ一度きりの描写で尺を消費してしまった問題もある。もしゲストキャラが死亡せず何度か再登場するようなシナリオであれば、描写の積み重なりが生まれたはずで、尺の有効活用に繋がったと思う。

 

 今回の11話ではそうした「①旧作キャラとGQキャラによる尺の奪い合い」による歪みが顕著に見受けられた。

 まず、ほぼ全てのキャラの発言が状況説明や解説のための早口ゼリフとなり、ドラマの盛り上がりが終盤に期待する盛り上がりに届いていなかった。

 今まで短いセリフや過程の省略によりドラマを動かしてきたのに、土壇場になってそのスタイルをやめて説明口調のシナリオになって変わってしまったのは単純にダサい。

 そんな早口で会話や説明ができるなら、もったいぶらずに最初からそうしておけばよかったのでは?(例外的にシャアは最初からセリフが多かったが)

 

 特に第11話中でドラマ性の欠如が現れたのはマチュ・ニャアン・シャア・キシリアが劇場で居合わせるシーンだ。

 このシーンの下敷きはZガンダム最終話にてカミーユ・シャア・シロッコハマーンが同じく劇場で意見を戦わせるシーンである。該当箇所はZガンダム名場面の一つであり、ここの会話劇を通じて少なくとも下記3つ以上の名台詞を生み出している。

 ・私は歴史の立会人にすぎんが……

 ・本当に排除しなければならないのは……

 ・常に世の中を動かしてきたのは一握りの天才だ

 このように格式の高い題材を作品川が出してくると視聴者としてもドラマの盛り上がりを期待せざるを得ないのだが、実際にはマチュらの乱入より会話自体が途絶するという最悪の化学反応が発生したのみとなった。

 旧作キャラのみ、あるいはGQキャラのみの会合であれば、少なくとも会話による何かしらの作劇が生み出されていたのではなかろうかと想像してしまう。それが実際には会話の破綻という無の結果しか産まれなかったのは残念である。

  もちろんこのシーンには「富野ガンダム的な旧来のドラマを新世代が改変し乗り越えていこう」とする本作の基本姿勢が改めて表現するという意図が込められていることは理解できるものの、素晴らしい題材を破綻させた改悪点の方が先に目についてしまう。

 さらに自ら擁護すると、このあとニャアンが発砲する出来事の方が重要であることから、本作は会話より行動で駆動するシナリオを重視する方針で一貫しているとは言えなくもない。

 ただやっぱり「あー。会話で話を盛り上げることが本当にできないんだなぁ」と失望してしまったのが放映視聴時の筆者の正直な感情である。

 こっちはシャアの再登場により各人物がどのように影響し合うのかを楽しみにしていたんだよ……。

 

 長くなってしまったが「②作品より視聴者に目線を向けた演出」に移る。

 一言で言えば、暗転した画面に懐メロを80秒間も流し続けるのではなく、一枚でも多く絵を見せて映像を動かしてほしかった。

 本作は既存ガンダム作品やガイナ・カラー作品からの引用が非常に多い。

 これらの引用は監督ないし脚本家の美意識に沿って作品本体の内容を高めるために引用していると受け止めていたが、視聴者に動揺を与えたいだけの飛び道具に過ぎなかったのではという疑念を第11話EDで抱いてしまった。

 適切な引用は既存の約束事を作品側と視聴者側で共有することで、場面に込められた意味合いを深めることができる。

 本作のこれまでの引用群の目的も、限られた尺内でドラマを展開するためだと思って視聴を続けていたが、第11話EDにて映像を見せることを諦めて過去の有名曲を流すだけの80秒間スタッフロールを見たことでこの認識は変わってしまった。

 これらの引用は作品内容に奉仕するためではなく、視聴者を刺激するために向けた行為だったのか?

 素晴らしいドラマを見せて観客を反応させるより、作品を経由せずに刺激物を直接観客にぶつけた方がより簡単に興奮させることができると考えているのだろうか?

 こうした疑念は過去にもあった。第六話にて人物の写し鏡ともいえる本棚を実在のアイドルグループと同じ内容にした行為には、引用行為に対する誠実さについて作品側と筆者との間で大きい差異があるのではと疑った。

 作品のために引用があるのではなく、引用のために作品があるのだという態度で制作しているのだとしたらそれは筆者にとって残念なことだ。

 今回のEDでは映像やセリフで何かを語ることより、懐メロの引用で視聴者を揺さぶることを優先したようにも見えるので大変不安である。

 

 以上のように第11話はこれまで筆者が不安視していた要素が特に強く現れてしまったエピソードであった。しかしこうした筆者にとっては嬉しくない要素であっても、これからが最終回の下地や布石になっている可能性もあるので、最終的な評価はまだできない。

 来週の最終回が筆者が想像していないような面白い内容になっていることを期待するばかりである。